詩境日乗

情想を気まぐれにつづります

理想についての主観的で通俗な導出

私は理想家である。
私には美しい精神(を得たい)という理想がある。
美しさとは主観的な心地よさである。理想とは精神的欲望である。
つまり美しい精神とは精神的欲望それ自体である。

物質的欲望を実現する手段は物質に依属するので理想を実現する手段は精神に依るだろう。しかし物質的欲望が実現されない場合の不満は物質と精神の両方に依って解消できることから理想の解消もまた両方に依るものかも知れない。すれば理想の精神が得られない場合に私は信仰や物質的豊かさや死によってその精神の欠如を埋め合わせるに違いない。まるで自らを騙すようだ。進んで盲になるようだ。

では理想を実現する精神的手段とは何であるか。物質的欲望の実現には方式が存在する。物は金で交換することができる。それは自己自身と切り離されたものだからではないか。自己自身と精神は切り離す事は出来ない。金は間接的な手段だ。切り離されていない精神は直接的な手段をもって実現しなければならないのかも知れない。直接的な手段とは。

美しい精神の所有者が享受した環境、人生、巡り合った精神的享楽などをたどることは出来ても、気質、精神のつくりが異なるのだから同じになるとは限らない。結局理想も欲望だから、自分自身を心地よく感じるよう自分を仕向けるしかない。自分自身に満足する努力を行うしかない。私は生涯美しい精神の所有者でない。だから自分の精神も美しいのだと自分をだますしかないというのか。自分をいかに騙せるかが生きるために必要、そのためには何を選んでも構わない、というようなことを言っていた人を思い出した。あの言葉は真理だったのだ。

理想を実現する方法は存在しないのか。精神と肉体は似ている。そうではなくて精神は肉体から生じたものなのだから結局肉体である。つい精神と肉体を二項対立させてしまうがやはり基本的に生れたままの状態で管理に依って健康が左右されるそれだけのことで、健康な精神のためには、結局、物質的あるいは精神的手段によって自分を錯覚させ適応規制するしかないのだろうな。数学的な導出をやりたかったけど結局俗に言われている自己啓発的な手段ばかりが残されていることを主観的に証明しただけだった。
理想は欲望の一種だということを心に留めておこう。